「後悔がまったくないと言ったらウソ」だと言う彼の言葉に救われてしまった
ジャニーズWESTの中にいて、いっしょに歌ってる夢を見ることがありますからね。でも、みんなで歌っているのに、僕が知らない曲で歌詞がわからない。"歌詞、わからへんな"って立ちつくしてしまう。そんな夢を見ることがあります。ただ、あったかもしれない未来を選ばなかったのは僕自身で。後悔がまったくないと言ったらウソですけど、結局正解はなかったと思ってて。(Myojo一万字インタビューより)
頭をガツンと殴られたみたいだった。それほどの衝撃だった。あれからこんなにも時は経ったのに、未だにそんな夢を見るのか、と。ああ、この人はほんとに馬鹿な人だなあと、そう思った。
とっくの昔に本人の中では折り合いがついていることだと思っていた。割り切れていることだと思っていた。けど、そうじゃなかった。まだそんな夢を見てしまうくらいには、その選択を取らなかったことを考えてしまうのだと。
その事実はわたしの胸を酷く痛めた。もうソロで活動し始めてから、何年の月日が流れただろう。ジャニーズWESTがデビューしてから、どれくらいの月日が経っただろう。それなのに、今でもそんな夢を見てしまうだなんて。
でも同時に、その事実にわたしは救われてしまったんだなあ。その事実に救われて、安心してる自分も同時にいる。もし優馬くんに後悔なんて全くないと、そう言われてしまっていたら、わたしはもう駄目だったかもしれないと思う。それはとても残酷なことなのかもしれないけれど、そう思ってくれてるところに、わたしはどこかで救われてしまったの。
勝手にね、もうずっと昔にあの頃の気持ちには折り合いをつけてるんだと思ってたから。だから、未練なんて持ってちゃいけないんだ、ってそう思ってた。確かにね、もう未練はないの。だからそっちを選んで欲しかっただなんてそんなことは思わない。けどね、もしその手を取ってくれていたら、その選択をしてくれていたら、ってそのことは、あの四年前の一万字を読んでから何度だって考えてしまうの。頭では理解していても、心が追いつかない。完全に折り合いをつけることなんて出来ない。きっとたぶん、それはこれからもそうなんだと思う。残りの人生でも、あと何回そう考えてしまうのかは分からない。
だから、今回の一万字インタビューで、本人だってまだ完全に折り合いをつけられてる訳じゃないんだ、割り切れてる訳じゃないんだってことを知れて、わたしは安心してしまった。まだそう思ってくれてるんだって。
だからこそばーか!って思ったけどね(笑)ただただ何も考えることなく、自分の気持ちだけに従って、その選択をしてくれていたら良かったのにって。だってあの頃の優馬くんを見てたら、そこが彼の一番大好きな場所で、大切な場所で、一番キラキラ輝ける場所だってことに気付かない訳がなかったから。もしかするとその選択をしていたら、彼自身を苦しめることになったかもしれないし、心無い言葉を浴びせられることもあったかもしれないし、誰かを傷付けることになったかもしれない。けどそれでも。自分の為に、選択をして欲しかったなあと今でも思う。それは何回も思ってる。もっと自分本位に何かを選んでくれてもよかったのにって。そしたら、周りからなんて言われようと、わたしはあなたをちゃんと守ったのにって。
だからほんとに馬鹿だなあって思う。優馬くんは本当に馬鹿な人だ。優しさは時に強さであり、弱さだ。大好きだったからこそ、大切に思ってたからこそ、その選択は出来なかった。出来るはずなんてなかった。でも、わたしからしたら、そんな優しさなんていらなかった。だってあんなにも大好きだったじゃんか、関西のみんなのこと。7WESTのこと。だったらただその気持ちだけに従ってくれたらよかったのにって。そうやって何かを選び取ったって、誰もあなたを責めたりはしなかったよって。少なくともわたしは、絶対に責めたりなんてしなかった。でもね、そんなところが愛おしいんだよなあ。そしてとてもとても愛おしいと思うからこそ、馬鹿だなあと思っちゃう。
これから先のオタク人生の中でも、きっと何度だって考えてしまうんだろうな。きっとそれは、優馬くん自身もそうなんだろうな。選ばなかったその先の未来のこと、考えては自問自答し続けるんだろうな。選べなかった未来があるのと、選ばなかった未来があるのと、どっちの方が残酷なんだろう。けど、その選択をしたのも同時に彼自身だから。
ゆうまくんに関しては思うところいっぱいあるし悔しいけどさーーーー、ゆうまくんが選んだ道だから仕方ないというかまあこれが現状だよなあって。グループじゃないってこういうことなんだよ、去年も思ったけど。
ゆうまくんが選んだ道ってそういうことなんだよ選ばされるみたいに選んだ道だったとしてもそれはゆうまくん自身が選んだ道だから、だからこそわたしはそこで戦ってほしいと思うんだよ酷かもしれないけどさあ。じゃないとあの選択が正しかったっていう証明にはならないじゃんか、、
まだあの選択をどこかで受け止めきれない自分がいるからそう思うのかもしれないけど、カウコンに出なくてもそれでもいいとはわたしは思わない。それが苦しくても酷でもゆうまくんにはそこで戦ってもらいたいんだなあわたしは。
これはわたしが2016-2017のカウコンが終わった後に呟いた言葉だ。カウコンには呼んでもらえた。けど、放送時間内に一曲も歌わせて貰うことは出来なかった。そのことに憤り、カウコンにはもう出なくたっていいんじゃないかと言う人も居た。
けどね、わたしは。 そんな風には1ミリも思わなかった。思えなかった。だってそれは仕方のないことだから。あれ程のジャニーズの出演者がいる中で、限られた時間内に一曲、たった一曲でも歌わせて貰うことはソロである優馬くんにとっては、とてもとても難しいことだ。ただ曲をリリースしているだけでは駄目だ。それが、それなりの結果を残していないと、きっと優馬くんに時間を割いてはもらえないだろう。
とても酷なことを言っているのは分かっている。けど、それが現実だから。そして、そうなることも覚悟の上で、彼はソロでの活動を選択したんだと、そう思っていたから。だから。そこで戦って欲しいと思った。別の場所じゃなくて、ジャニーズのアイドルとして、ソロの活動を選んだのだとしたら、そこで、その場所で戦って貰わないと意味がない。だってそうじゃなきゃ、あの時の選択を正解に出来ない。それが正しかったんだっていう証明には、ならない。わたしは優馬くんが、自分のしてきた選択を正解に出来る人だと、正しいものに変えられる人だと、そう知っているから。だから。
僕はこっちの道を自分で選んだ。(中略)選択したのは僕。この道を歩んだことを、胸を張れるようになりたい。だから、こっちの道が正解だったってことを、これからの人生を賭けて証明しようと思います。(Myojo一万字インタビューより)
良かったって思った。誰のせいにする訳じゃない。自分で選んだ道だから、と。だから正解だったということを、これからの人生を賭けて証明しようとしてくれている。優馬くん自身もそう思ってくれていてくれたことを、とても嬉しく思った。きっとそれは、彼がその選択をしたことを全て受け入れきれている訳じゃなくて、割り切れている訳でもないからこその言葉だと思った。もし、後悔なんて全くない、一つもないとそう折り合いをつけていたらきっと、そんな風に思ってはくれなかっただろう。どこかで後悔や未練や割り切れない部分があるからこそ、そんな風に思ってくれているのだと。
オタクだけじゃない。そう思っているのはこちら側だけじゃない。優馬くんだって、迷いながら、悩みながら、時には後ろを振り返りながら、選ばなかったその先の未来のことを考えながら、それでもこっちが正しかったんだと証明するために、今をただ必死で戦っているんだと。その事実に、わたしは救われた。最低かもしれないけれど、救われてしまったんだ。
もしかすると、自分の選択に間違いなんてなかった、自分の選択は全て正解だった、だから後悔なんて一つもないと、そう言い切れる人の方が強くてかっこいいのかもしれない。けどわたしは優馬くんに、そうではない弱い部分も持ち合わせている人であって欲しかったの。
今わたしは一番近い距離でゆうまくんを見れてないなあって自覚があるし、だからこそ今ゆうまくんがどう思ってて何を感じてるのかが分からないからそれが悔しいんだけど、ゆうまくんはどう思ってるのかな〜〜〜〜悔しいとちょっとでも思ってくれてたらいいな。別にそうでもなければそれでいいんだけどw
これもカウコン後のわたしの言葉だ。もし悔しいっていうその気持ちが本人になかったらどうしようと、そう思っていた。でもそんなの杞憂だった。
現状にいちばんジレンマを感じているのは僕なんで。(Myojo一万字インタビュー)
優馬くんが今の状況に対して悔しいと、そう感じてくれる人で良かった。過去の選択に後悔なんて全くないと言わない人で良かった。それを今、このタイミングで本人の言葉で知ることが出来て、良かった。
ずっとどこかモヤモヤとしたものを感じていた。それは決して優馬くんのせいではないけれど、どうしても優馬くんに対するモチベーションが上がらなくて、 去年優馬くんの現場に足を運んだのはABKAIの一回のみだった。このまま少しずつ少しずつ他人になってしまうのかなあと思っていた先に決まったSHOCKの出演。「また立ちたい」と本人も望んでいた、こちらも望んでいたお仕事が決まった。ああ、これを機に2018年は優馬くんをもっと追い掛けたいなと思っていたらチケットが外れた。その後に決まったお仕事は外部での舞台だった。なんとなく使命感に駆られてチケットを取ったはいいけれど、これから先のことはSHOCK次第、SHOCKのその先のお仕事次第だなあと思っていたわたしには、とても酷な現実だった。
それでも。何とかご縁に恵まれてSHOCKの公演に入れることになった。そしたら一万字インタビューでずっと知りたかったことや欲しかった言葉を聞くことが出来た。ああ、このタイミングなんだなあと。わたしはこの人と一生縁を切ることは出来ない。この人のことをきっと一生他人には出来ないんだろうなと思った。そのことに気付かされてしまった。
ついてきてくれるあなたがいることがまた僕がキラキラに戻れる希望でもあるんです。(Myojo一万字インタビューより)
わたしは知っている。優馬くんが一番輝いているのはキラキラをしてる時だってこと。だから。あと何年かかるのか、それが明日なのか来年なのか五年後なのか分からないけれど。いつかまたキラキラのアイドルを出来る日のために、優馬くんの希望でありたい。だって優馬くんはいつだってわたしのことを救ってくれる人だから。
これから先もずっと、優馬くんの希望であり続けられますように。またあの場所で、優馬くんに会うことが出来ますように。
"神様"を見つけてしまったみたいだ
今だから言うけど私は今回のツアーは横アリしか入るつもりがなかったので、京セラを見届けて横アリを終えたら小瀧くんを降りようって思ってたし、そう決めてた。
別に他に応援したい子が出来た訳じゃなくて、小瀧くんのことどうでもいいやってなった訳でもなくて、でもなんかただ、もう降りた頃みたいな熱量にはならないだろうなって気付いてしまったし、もう小瀧くんは大丈夫だろうなって思ったから。担当として、その距離で小瀧くんのことを見ていなくても、大丈夫だって。きっと頑張って追い掛けなくても、私の知らない場所でも、もう心配することなんてないなあって。そういうところに行ってくれたなあって。
だから小瀧くんを降りて、これからは担当云々関係なく自分が行きたいと思う現場に行くスタンスでジャニオタやってこうって思ってた。オタク自体は辞められないけど、もう小瀧担としているのは辞めようって。
でもね、京セラで半年振りくらいに現場で小瀧くんを見たらね、ずるいけど、ほんとにずるいんだけど、まだ辞められないなあ、辞めたくないなあって思ってしまって。現場がない期間、小瀧くんのこと降りようって考えてた時は、きっとそれでもどっかで小瀧くんのことずっと好きでいたいって思ってた。自分でもそう思ってることに気付いてた。でもずっと好きでいたいっていうのは、ずっと好きでいるっていうのとはたぶん違くて、好きでいたいから好きでいるみたいなのが、どこかで嫌だったんだなあ、私は。でもね、京セラで小瀧くんの顔見たら、あ、私好きじゃんって。小瀧くんのこと好きでいたかったんじゃなくて、好きだったんだって。そういう自分に気付いた。だからまだ降りないって決めた。まだ私の中にちゃんと小瀧くんはいるんだなあって思った。
現場に行くと、ステージに立つ小瀧くんを見ていると、小瀧くんが優しい人だってことにいつも気付かされる。優しい笑顔で客席に手を振る姿やバンバンで撃ち抜かれる姿や笑みを浮かべながらペンライトの光を眺めているのを見ていると。京セラドームの、横アリのスタンドよりも、城ホの最後列よりもずっとずっと遠い場所から小瀧くんを見ていて、小瀧くんは優しい人だなあってことにやっぱり気付いてしまった。それがとっても嬉しくてとっても苦しかった。
小瀧くんは愛され上手だってよく言われるよね。でもね、小瀧くんがみんなから愛されてるのは、小瀧くんがそれ以上にみんなのこと大切に思ってるからなんだって、愛してるからなんだって私は思ってる。そういう人だってことをみんな分かってるから、みんな小瀧くんのこと愛してくれてるんだって。だって小瀧くんはきっと、優しくしてくれるから優しくするんじゃなくて、大切にしてくれるから大切にするんじゃなくて、愛してくれるから愛するんじゃなくて、例えそうじゃなかったとしても大切にしてくれて、優しくしてくれて、愛してくれる人だから。そういう小瀧くんに私はいつも気付いてしまう。そういう彼に気付いてしまうことが時にとっても苦しくて残酷だなあって思う。小瀧くんが優しくなかったらよかったのに、ってたまに思う。でもそういうところが、私が小瀧くんに一番に変わらずにいて欲しい部分でもあるのかもしれないなあ。
私は天邪鬼だから、小瀧くんが駄目ならムカつくし腹立つし、でもそうじゃなくなってしまったら寂しいな、つまんないな、物足りないなって思っちゃう。小瀧くんが必要以上に批判されたりしてるの見ると腹立てる癖に、あんまりに褒められすぎてるの見ると今度はそんなでもないだろって思っちゃう。めんどくさいね。
だからね、ほんとはどこかでもう心配することがなくなってしまったことが寂しい。ほんとはどこかで、もっとずっと駄目でいてくれたら良かったのにって、そう思ってる。ずるいけど。もっと駄目なところも見ていたかった、もっとくすぶってるところも見ていたかった。たぶんそう思ってる。でもそういう彼にはもう会えないんだろうなってことも京セラで確信してしまった。きっと小瀧くんは小瀧くんにとっての"神様"を見つけてしまったんだと思う。それは私が願っていたことだけれど、でもやっぱりどこかで寂しかった。まだ"神様"は見つけないままでいて欲しかった。
でもね、それで良かったんだと思う。そしてそれでも大丈夫だって思う。だって彼は忘れない人だから。忘れずにいてくれる人だから。そのことも確信したから。
小瀧くんが大好きだった7WESTのことも、7WESTを大好きに思ってたことも、大切に思ってた人達のことも、素敵な出会いをしたことも、悲しいお別れをしたことも、ジャニーズWESTでデビュー出来たことも、初めて単独でコンサートをしたことも、初めてアリーナツアーをしたことも、初めて主演の舞台に立ったことも、初めて京セラドームのステージからの景色を見れたことも、松竹座からの景色も、日生劇場からの景色も。きっと全部忘れない人なんだと思う。忘れずにいてくれる人なんだと思う。だからきっと大丈夫だ。
小瀧くんは小瀧くんにとっての"神様"を見つけてしまった。もう"神様"を見つける前の小瀧くんじゃ、いられない。けどね、小瀧くんは変わっていく中でも、変わらずにいてくれる人だって知ってるから。だからこれからも私に応援させて欲しいです。
たぶんもう前みたいな気持ちにはなれないんだと思う。けどそれは小瀧くんが次の扉の向こう側に行ってくれたからだね。だからね、私にこれからもずっと好きでいさせてね。それでも好きだって気付けたからこそ今はずっと好きで居たいって思ってるよ。
小瀧くんは私なんかよりもきっとずっとジャニーズWESTのことを大好きだって思ってる人だ。大切に思ってる人だ。小瀧くんのこと見てると、私なんて全然ジャニーズWESTのこと好きじゃないのかもって思うし、実際そうなのかもしれない。けどね、何回でも言うけど、小瀧くんがジャニーズWESTのことを大好きで大好きで堪らなくて、すっごくすっごく大切に思ってることが分かるときに、小瀧くん越しに見えるジャニーズWESTがずっとずっと素敵に見えるから。だからその景色をまだ私に見させてね。
小瀧くんの"神様"
気付けばMORSEの初日から1年。そしてわたしも約1年間ブログを更新していなかったということに気付いた。久々に言葉にしたくて、過去の自分のブログを読み返してみた。
"自力で見つけてね、神様"
スピッツの運命の人の「自力で見つけよう 神様」という歌詞がわたしは好きだ。そしてこれを受けてわたしがパリピポ期間中に小瀧くんに送ったのが、「自力で見つけてね、神様」という言葉だった。
小瀧くんには自分自身で自分の"神様"を見つけて欲しかった。手に入れて欲しかった。誰かに与えられた"神様"じゃなくて、自分の手で見つけて欲しかった。小瀧くんの中の絶対の人やものや何かは小瀧くん自身で見つけてもらわなきゃ、手に入れてもらわなきゃ意味がないって思ってたから。小瀧くんの中の絶対を小瀧くんの中の"神様"にしてほしかった。誰か他の人基準じゃなくて、小瀧くんが"神様"だと思うからという理由で。
例えばそれが他の人にとっては"神様"じゃなくて、他の人からしたら"神様"だとは思えないものだとしたって、小瀧くんがそれを"神様"としたのだとしたらそれはきっと小瀧くんにとっての"神様"なんだよ。
小瀧くんの中の絶対は見つかったかな。小瀧くんの"神様"は見つかったかな。きっと小瀧くんなら自分自身で手繰り寄せられるって思ってたから、信じてたから、そして今でもずっと信じてるから。
"自力で見つけてね、神様"
ただもう一度この言葉を送りたかっただけです。
LET THE RIGHT ONE IN ※ネタバレあり
- 冒頭の「何見てんだよ、豚!」
- お菓子屋さんでの万引き
オスカーはヨンニとミッケからひどいイジメを受けた後、お菓子屋さんに行き、万引きをします。お菓子屋さんのおじさんは、それに気付いていないのか、それとも気付いていないフリをしてくれているのか、オスカーに心配する言葉をかけるのです。「大丈夫か?」「うん」このオスカーの返事がなんとも言えない程に切ない。本当は大丈夫なはずなんてない。それなのに彼は、誰にも助けを求めることができない。その代わりに彼は万引きをする。もしかすると、どうすることも出来ない今の状況に対する精一杯の抵抗の仕方が、オスカーにとっては万引きだったのかもしれません。
- 「ぼくのともだちになってくれない?」
- 砂場での陰湿ないじめ
- 「明日もきっとここに来る。いい匂いになって、来る」
- 「もうそれだけじゃ駄目なのかもしれない」
「愛してるんだ」と言ったホーカンに対してエリが放った言葉です。やはり、エリはもうホーカンとの時間がそれほど長くないということに気付いています。このままではいられないということを、エリは勘付いているのです。ホーカンにとっては残酷なことかもしれませんが。
- オスカーとエリの約束
エリは何故だか約束が嫌いです。「嘘ついてないって約束できる?」「約束は嫌い」「約束できる?」「わかった、約束する。シールは貼り直してない。約束する」そんなエリがオスカーと交わした約束。「それでもやられたら?」「そしたら助けに行く。」「助けに行くから。約束する」どこまでがエリの打算?もしかするとオスカーと約束を交わしたのも彼女の打算?そしてオスカーはモールス信号の載ったノートをエリに手渡します。エリと公園で会う前に、とても愛おしそうにノートを見つめているのがとても印象的ですよね。かわいい。「ー・ーーー ーー・」「そう、エリ。君の名前だ」
- 「もし女の子じゃないって分かっても好きでいてくれる?」
「オスカー、好き?」「うん、好きだと思う」「もし女の子じゃないって分かっても、好きでいてくれる?「どういう意味?」「そのまま。もし女の子じゃないって分かっても、好きでいてくれる?」「うん、好きなんじゃないかなあ」「ほんと?」「どうしてそんなこと聞くの?」「聞きたかっただけ」この「女の子じゃないって分かっても」というエリの言葉が、オスカーを混乱させることになりますよね。そしてオスカーはアヴィラ先生に尋ねる。「自分が恋をしていると思う時は、どんな時ですか?」「人によると思うが、その人とずっと一緒にいたいと思った時じゃないかな?」「それはつまり、その人なしでは生きていけないと思うってことですか?」「じゃあ・・・もし恋した相手が女の子じゃなかったら?」
- 「何者でもない」「自分は自分でしかない」
「女の子じゃない」という言葉を聞いて、オスカーが持ち合わせた答えはひとつだけでした。女の子じゃない=本当は男の子であるということ。だけどエリはそうではないと言う。「君がもし男の子でも構わない」「男の子じゃないよ」「えっ?でも女の子じゃないんでしょ?」「何者でもない。」「自分は自分でしかない」この時点ではまだ、オスカーはエリをアレだとは気づいていません。だからこそエリのその言葉に困惑するオスカー。だけどオスカーはもうエリに恋をしてしまっている。「今日、いやなもの見ちゃったんだ。」「その時思ったんだ。君が一緒にいてくれたらって」アヴィラ先生に教わったこと。その人と一緒にいたいと思うことが恋をするということ。「エリ、僕と付き合ってくれる?」「僕と一緒にいてくれるかってことだよ」「僕と付き合うの!付き合わないの!」この時のオスカーはエリと付き合うということが何を意味しているのかまだ分かっていません。永遠に分からないままの方が幸せだったのかもしれませんが。
- 「オスカー?入っていい?入っていいって言って?」
それにしても、エリは悪い女です。ホーカンがエリのために硫酸を被ったその夜に、オスカーの部屋へ向かうのですから。そして自分を招いてくれるように請う。ホーカンにとっては残酷なことです。でもきっとそれがエリの生き方で、きっと彼女はこれからもそうして生きていくことしか出来ないのです。
- 血の契り
オスカーはエリと血の契りを交わそうとします。「僕と契約を結びたい?」「勇敢なナイトの契約なら、なんでも」。私は最初、何故オスカーがこんなことをしようとしたのか、分かりませんでした。オスカーの純粋さ故の残酷さなのか、なんなのか。しかし観劇を重ねていくうちに、ある一つの考えが浮かんできます。もしかするとオスカーはエリの気持ちを確かめようとしたのではないか?と。確かめようとしたというよりは、試そうとしたと言った方が近いかもしれません。きっとオスカーは、ママから正しい愛情を受けてこなかったから。それの正しい確かめ方が分からなかったんだと思います。ママを演じる高橋さんもパンフレットで、「母の歪んだ愛が、息子をやはり歪んだ方向に向かわせる」とおっしゃっています。歪んだ方向に向かってしまった結果、血の契りという、ある意味で歪んだやり方でしかエリの気持ちを確かめることができなかったのではないでしょうか。
- 「もっと早く助けに来てくれればよかったんだ!もっと早く!」
誤ってヨンニの耳に怪我を負わせてしまったオスカーが叫ぶ台詞です。本当にその通りだと思います。こんな風に、オスカーが心の声を言葉にする前に、誰かが彼のSOSに気付き、彼を救ってあげるべきだった。もう手遅れだったけれど。
- 「ママは正しいことを教えてくれない!」
ママが正しいことを教えてくれなかったということも、オスカーを最後の決断に向かわせた要因の一つだと思うんですよね。ママはオスカーにいい子でいてほしいと思う割には、オスカーにそれがどういうことかを教えてはくれない。「あんたにはがっかりだよ!」「ママは正しいことを教えてくれない!」「また呑んでる」「呑んで何が悪い?!」「このクソ女!」もしかするとママから見たオスカーの姿は、ただの幻想だったのかもしれませんね。
- 「ぼくは将来どんなタイプの人間になると思う?」
オスカーはきっと、ヨンニに仕返しをしたことで、自分が乱暴で残酷な部分を持ち合わせているということに気付いてしまったんだと思います。そしてオスカーはそんな自分がどこかで怖かった。自分で自分の凶暴な部分に恐怖を感じた。だからこそ、パパにこんな質問をしたんだと思うんです。「ねえパパ?パパは自分をどんなタイプの人間だと思う?僕は将来どんなタイプの人間になると思う?」
- 「ならそいつらよりあなたの方が正常」「大丈夫、あなたは間違ってない」
きっとこの二つの台詞は、「ママは正しいことを教えてくれない!」というオスカーの台詞の対になる台詞だと思うんですよね。正しいということが何か教えてくれなかったママと、それを教えてくれたエリ。母親から受け取れなかったことを、エリからは受け取ることができる。だからこそ、オスカー⇔エリというよりはママ⇔エリという関係にあるのではないかと。
- 「約束して。光を入れて、正しい世界を生きる」
エリとの別れのシーン。「行ってほしくないよ!」「行きたくないよ!」「僕も一緒に行く!」エリに縋りつくオスカー。だけどエリは、オスカーにこう投げかけます。「約束して。光を入れて、正しい世界を生きる」「約束して。そして許して」。この「正しい世界『を』生きる」という台詞が味噌だと思うんです。「正しい世界『で』生きる」のでもなく、「正しい世界『に』生きる」のでもなく、「正しい世界『を』生きる」という台詞になった意味。なんだか私はそこが重要な気がして。その意味について、ずっと考えています。
- 「僕にはもう、居場所がないんで」
この台詞がずっと頭を離れませんでした。エリをも失ってしまったオスカー。どうしようもなく悲しくて切ない台詞のはずなのに、表情も声色もその言葉と全然一致していなくて。それが余計に切なくて、悲しくて、苦しくて、初日からずっと頭を離れません。ずっとぐるぐると頭の中を回っています。
- オスカーにとっての「正しい世界を生きる」ということ
オスカーは絶体絶命の危機をエリに救ってもらいます。約束通りに。そしてプールから上がってきたオスカーがエリを見つめるその目は。完全に神を見つめる目です。恍惚としていて、確実に崇拝が混じってる。そんなオスカーの姿は、「私の神」とエリに縋りつくホーカンの姿と完全に重なります。エリはオスカーにとっての神となったのです。だから正しいという判断基準の全てはエリになった。「LET THE RIGHT ONE IN(正しい者を入れよ)」正しい者としてオスカーが受け入れたのは、エリでした。オスカーにとって「正しい世界を生きる」ということ=エリの道徳に従って生きていくということ。何故ならエリはオスカーにとっての神となったから。エリに助けてもらったオスカーは、エリという道徳と倫理を手に入れたから。
- ラストシーンについて
エリに助けてもらったオスカーは、エリと共に生きていく決意をします。ラストの着替えを見ながら私たちはそれを悟ります。私たちは何とも言えない気持ちでそれを見つめることしか出来ません。ただ、オスカーがエリを見つめる目が、エリがオスカーを見つめる目が、まっすぐで、熱くて、愛情に満ちていて。箱に入ったエリと共に電車に乗るオスカー。その電車が行く先はどこなのか。私たちにはわかりません。ただ、差し込む光をまっすぐと見つめるオスカーの目がとても印象的です。というのも、エリと別れた後の公園のシーンあるじゃないですか。あそこは劇中で一番照明が明るくて。きっとそこが、エリの言う「正しい世界」だったと思うんです。だけどオスカーはその光に対して眩しい、という反応をします。オスカーはもうその時点で、その世界では生きていけなかったんです。きっとオスカーにとって光となりうるものはエリだけだったから。エリと生きていくしかなかった。公園のシーンでは眩しいという反応をしたのに対し、ラストの光が差し込むシーンではまっすぐとその光を見つめている。その表情がとっても印象的なラストシーンです。
- 「LET THE RIGHT ONE IN」という原題について
もうこの原題が!絶妙じゃないですか!正直舞台を見終わった後、映画の「ぼくのエリ 200歳の少女」という邦題を付けた人を殴りたくなりました(笑)「正しい者を入れよ」最後にオスカーが正しい者として受け入れたのはエリだったけれど、果たしてその選択が本当に正しかったのかどうか。エリは本当に正しい者だったのかどうか。含みを与えてこちらに解釈を委ねているところがたまらないですよね。英語ならではの表現なのかもしれませんが。とはいえ、結局オスカーにとって正しい者はエリだった、エリだけだった。オスカーにとってはただそれだけのことなんですけどね。
- エリの入った箱
エリとオスカーの見えない壁や隔たりを可視的に表現したのが、この箱なのではないかと思うんです。どれだけ近付いても、どれだけ一緒の時間を過ごしても、そこには超えることのできない壁があり、隔たりがある。永遠に消えることのないオスカーとエリの隔たりが、箱の中にいるエリと、その外側にいるオスカーという表現で表されているのではないかと。
- 劇中におけるモールス信号
題名が「MORSE」という割には、モールス信号を使うシーンはあまりないですよね(笑)私はもっと、モールス信号を用いることでオスカーとエリが仲を深めていく部分が描かれていると思っていたので、そこは正直最初拍子抜けでした。でも、このモールス信号が劇中で果たす役割は二つあると思うんです。
一つはモールス信号≒登場人物達のSOSの叫びなのではないかと。オスカーは冒頭のシーンで、SOSのモールス信号を送っていますが、きっとSOSを送っているのはオスカーだけじゃないと思うんです。エリも、ホーカンも、ママも、ヨンニも、ミッケも。きっとみんなSOSを誰かに送っていた。だけど誰にも気づいてもらえなかった。オスカーとエリ以外は。オスカーのSOSはエリに、エリのSOSはオスカーに届いた。モールス信号は「ちゃんと聴」かないと分からないものだから。「ちゃんと聴」こうとしなければ、それを受け取ることはできないから。それぞれのSOSはモールス信号のようなものだったのではないかと私は思います。
そして二つ目はオスカーとエリを繋ぐものとしての役割。先にも述べたように、オスカーとエリの間には、見えない壁が存在している。きっと永遠にその隔たりがなくなることはない。だけどその二人を繋ぐモールス信号。ラストで、箱の外と中から、お互いにモールス信号を送り合う二人。そしてそっと愛おしそうにその箱を、エリを撫でるオスカー。「-・--- --・」「・-・・・ ---・- ・-・・」モールス信号が永遠に二人を繋いでくれるよう、願わずにはいられません。
- オスカーとホーカン
MORSEを見終わった後、オスカーとホーカンはパラレルに描かれているように感じてしまいますよね。ホーカンにとってエリは全てだったかもしれないけれど、エリにとってはそうではなかった。ホーカンと過ごした時間は、「長い間」生きてきたうちのほんの「少しの間」でしかないし、オスカーもエリがこれから生きていくうちの「少しの間」でしかないのかもしれない。だけど一つオスカーとホーカンに異なる点があるとすれば。オスカーにはモールス信号というエリと繋いでくれるものがある。見えない壁を、隔たりを超えられるモールス信号がある。だからきっと、オスカーはホーカンとは違う結末を迎えてくれると。私はそう信じています。
さて、死ぬ程長い文章となってしまいました。途中で脱落せずに最後まで読んでくれた皆さん、ありがとうございます(笑)長すぎて自分でも何を書いているか分からなくなりました(笑)時系列も一応気にして書いたつもりですが、もしかするとずれているところもあるかもしれませんし、見当違いな解釈もあったとは思いますが、そこは見逃してくだされば有り難いです。なんせ原作も読んでいなければ、映画も観ていないので(笑)
私にとってのMORSEは、残すところ千秋楽一公演のみとなってしまいましたが。
オスカーがした選択がどんな結末を迎えるのか、彼の決意が行く先はどこなのか、千秋楽でそれを見届けられればいいなと思っています。
最後の最後に小瀧くんへの想いをひとつ。
あなたは私の自慢の自担です!
どうか小瀧くんが最後まで無事にオスカーを演じきれますように。